Q日本サッカー協会のシンボルマークは誰が作ったのですか?

中村覚之助さんが日本サッカー協会のシンボルマークを作ったわけではありません。
これは、日名子実三(ひなごじつぞう)さんというアーティストがデザインしたものです。

そして、そもそものその図案の発案者は、東京高等師範学校の内野台嶺(うちのたいれい)さんを中心とする人たちであり、内野台嶺さんは中村覚之助の後輩にあたります。
この内野台嶺さんは1906年頃の蹴球部員でした。
当時、中村覚之助さんは神様のように慕われ、東京高等師範学校とうのは現在の筑波大学、内野台嶺さんは中村覚之助先輩がいる、和歌山県那智勝浦町の那智大社のシンボルである八咫烏を図案として取り入れたというのが有力な説になっています。

Q日本で初めてサッカーの対外試合を企画実行したのは誰ですか?

中村覚之助さんです。
中村覚之助さんのいた筑波大学蹴球部は、運動会フットボール部が設置された1896年を創設の年としており、なんと1899年の ACミランやバルセロナよりも歴史があるのです。

1904年(明治37年)2月6日には4年生の中村の企画で東京高等師範学校は横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブと日本で最初のサッカー対外試合を行うことになりました。
ちなみに試合は0-9で大敗したそうですが、日本サッカー史上の記念すべき試合となりました。

Q中村覚之助さんはいくつで亡くなったのですか?

29歳の若さで病気で亡くなりました。

中村覚之助さんは、若い頃から勉強も運動もできて絵も上手、リーダーシップも備えていて明日の日本を背負う人材だったと言われています。
今で言う和歌山大学に入学するも、その後で筑波大学に入学します。那智勝浦町から当時筑波大学に勉強で行く人はまずいなかったでしょう、それほど立派な方であったそうです。
英語もでき水泳もでき、サッカーの始祖となった中村覚之助さんを誇りに思います。

PAGE TOP